言霊と大祓詞と大宇宙産霊小宇宙
大宇宙と小宇宙
古事記の表儀は大宇宙の御働き、裏儀は、その瞬間瞬間における小宇宙の働きを著したものです。
即ち天地開闢からの一連の流れも二つあるわけです。
小宇宙ではその瞬間毎に天地開闢を繰り返しています。
大宇宙は普段私達が認識している地球や太陽、月を含めた宇宙です。
小宇宙とは私達自身を指します。
大宇宙から小宇宙は産まれ、繋がり(リンク)を持っています。
字で表すと『大宇宙産霊小宇宙』となります。
産霊はムスヒという神名から産まれた漢字(概念の一つ)です。
この場合、ムスヒの三音それぞれが神であり、これを神名(カナ)と云います。
ここではムスヒという文字ではなく、音が神であることに注意です。文字はあくまで概念(※概念も神の働きに由る)であり、形であるのでウツリカワル(移り替わる•写り変わる…等)ものです。
音は日本人誕生以来変わっていないはずです。
(外国では音が違いますが、外国には外国にそれぞれ神様がいます。しかし、元は一つなので共通するところもあるのでしょう。)
ヨハネの福音書(ヨハネ伝第一章)
ここでヨハネ(イエスキリストの愛弟子)による福音書の一文を紹介します。
太始に言ありき 言は神なりき
この言は太始に神と共に在り
萬のもの これに因りて成り
成りたるものに一つとして之に因らで成りたるはなし
之に生命在り この生命は人の光なりき
光は暗黒に照る 而して暗黒は之をらざりき
↓訳
『現実界(地球•文明)の始め(知)に言あり。
言は神であり、神と共にあり、この世(現実界)に存在する全ての万物は全て言により知として認識され、言無くしてその存在を知ることは無い。
即ち、言は命[意の道(地)]であり、人の光なり。
言の無い世界は存在の知なき暗闇(無知の世界)であり、言は闇を照らす光である。』
主体のア(感•日•霊•天•神)が天地開闢であり、それだけでは天地開闢があったことを知る由はありません。
客体のワ(知•月•実•地•人)が天地開闢を認識したからこそ、実相として顕れたといえます。
小宇宙で当て嵌めると、人にもア(吾)とワ(我)、主体と客体、霊と肉体という様に日月の双(相)が在ります。
声字実相義(空海)
続けて、空海の説いた声字実相義の一文を紹介します。
声字分明にして実相顕はる
内外の風気 僅かに発すれば
必ず響くを名づけて声と白うなり
響きは必ず声に由る
声は即ち響きの元なり 声発って虚しからず
必ずものの名を表するを号して字と白うなり
名は必ず体を招く 之を実相と名づく
福音書と伝えている内容は同じです。
空海はより具体的に声と文字という表現を用いて伝えています。
抽象[心•想い•気•霊•神•天など]から具象へと移ったものを実相と云います。
具象化された「声」から更に現実化した(地に降りた)ものを「字」(ジ•チ)と云います。(血肉)
神名(カナ)
神名(カナ)とは現実界に現れたものをいいます。
神名の前に真名(マナ)があり、その前に天名(アナ)があります。
[真名とは、アイウエオ五十音図のこと]
天名十七神から真名へ、そこから意を以て(真奈井)発することで現実界に「声」つまり音響という形で神名という「実相」が顕れます。
(神名に意(イ•霊)がノル(宣る)ことを言霊と云う)
ミコトという概念は「命」と表し、「尊」いと表し、言に敬称を示して「御言」と表します。
鳥之石楠船神(天鳥船)
神道で云う鳥とは全て、言葉(言霊)が飛び交う相(さま)の象徴でもあります。
石楠は五十葉[五十音図(布斗麻邇)]を組み澄ます言であり、
アカサタナハマヤラワの十音配列を十理(トリ)と云います。
五十音は神霊魂意を乗せて運ぶ[道具(船)→言葉]であり、鳥の如く空中を飛んで行く様から鳥船と云います。
天名十七神
天御中主神〜伊邪那美神までの十七神
八父韻
神世七代の三代目である宇比地邇神(陽)〜六代目で阿夜訶志古泥神(陰)までの八神
伊邪那岐•伊邪那美[イ・i]の誕生(入る)前、つまり音に成る前の韻[K•H•N•M•T•R•S•Y]のこと。
ここに母音のイが入り↓
[キ・ヒ・ニ・ミ・チ・リ・シ・イ(Yi)]という音が鳴(成)る。
※Yはヤ行。
ヤ行のイに当て嵌まる字の概念が無い為Yi と表現しています。
(↓図ではイと表していますが…)
なので、ワ行の音も正確には
ワ=Wa ヰ=Wi ウ=Wu ヱ=We ヲ=Wo
となり、それぞれに母音アイウエオと半母音ワヰウ(Wu)ヱヲが含まれています。
母音(陽)と半母音(陰)
母音アイウエオ →伊邪那岐神(天御柱)
半母音ワヰウヱヲ→伊邪那美神(地御柱)
アワイキミ
ス→造化三神
ア(ウ)→天御中主神
ヤ→高皇産霊神
ワ→神皇産霊神
ア→高皇産霊神(⇄伊邪那岐)
ワ→神皇産霊神(⇄伊邪那美)
イ→高皇産霊神→(継承)→伊邪那岐
ヰ→神皇産霊神→(継承)→伊邪那美
キ→伊邪那岐神、ミ→伊邪那美神
子音
伊邪那岐・美[キミ(陽陰)]から産まれた三十二の子音霊。
真名(天詞・布斗麻邇・五十音図)
天名から創造された神々とその配置(組都)
布斗麻邇(縦五•横十の五十音図)を指す。
後に伊邪那岐大神が天照大御神に玉の緒(五十音図)を授ける。
・天御柱である母音アイウエオ(5音)
・国御柱である半母音ワヰウヱヲ(5音)
・八父韻 K H N M T R S Y (キヒニミチリシイ)(8音)
・子音三十二音(32音)
子音三十二神を産んでこの世に必要な全てが整い、「ん」を以て神産みが終わります。
古事記の真意
古事記神話に登場する百神のうち、前半は五十音言霊の成り立ちと構造、後半はその言霊で組まれた神名による人の精神宇宙が表現されています。
言霊の成立ち・構造とその説明書が古事記の裏義です。
扱い方とは、人が人と鳴り成る為、理想の在り方へと成長する為の言霊を使った方法論であり、奥義です。
人は扱う言葉の組み合わせ、順序によって自分自身を含めた世界が変わります
真名の中とは旧約聖書に登場する三種の神器の一つである「マナの壺」にあたります。
これを真名意(真奈の井戸(意図))と云い、真名から湧出するところの頭脳の思索判断の枢軸を意味します。
邇邇芸命の天孫降臨
天名から真名が創造され、キミの意により神名(カナ)として具象化(声や言葉)します。
天から地(現実界)へ発する、この一連の流れを邇邇芸の御言の天孫降臨と云います。
天名の子である真名(ニ)から具象化される子(ニ)、つまり天名の孫です。
ギは芸という漢字が当てられていますが、大和言葉ではキであり、天の孫の気、即ち継ぎ(つむぎ)を表し、芸という字では芸術・実現化・義・美・術(すべ)を表します。
つまりこれが降臨したのが天子ではなく天孫である意味であり、邇邇芸尊は天(キ)から地(ミ)へ、抽象から具象へと顕れる神名(カナ)となります。
天子(天詞様)は未だ言として顕れる前の抽象である五十音図なので、現実界であるこの世に形としては存在しません。
五十音図に祈る(意が載る)ことで響きとして顕れる言の働きが邇邇芸尊となります。
祈りがあって初めて言霊として機能し、実相を表します。
ここまでの言霊の知識をもっておくと、今後の記事内容への理解が深まること間違いなしです。
大祓詞
冒頭で書いたように『大宇宙産霊小宇宙』ですから、大宇宙と小宇宙である私達一人一人は結ばれています。
大宇宙であるものは全て小宇宙にもあります。
よって、大祓祝詞も全宇宙を清めるという大きな意味もあり、自身を清めるという小さな意味も持ち合わせています。
具体的に大祓祝詞は小宇宙にどのように当て嵌まるのか?
大祓詞は食事における浄化(消化)祝詞
大宇宙における瀬織津姫・速開津姫・息吹戸主・速佐須良姫の御働きは、小宇宙における自身の唾液分泌〜消化という形で顕れます。
大宇宙では皇親神漏岐命と神漏美命の御働きにより大祓の義が始まります。
小宇宙では上歯(火)と下歯(水)という形で顕れ、噛む(カム)ことによって唾液が漏れます。
カムロギとは、その行動(動作)の元となる気であり、カムロミとは噛み漏らす気によって具現化した行(義)そのものになります。
天津神 国津神 八百萬神達共に
聞こ食せと白す
「心(天) 体(地) 身魂全体で自らの食音を聞き食事せよ」
八→開く•拡散•全方位などの意味。
百(モモチ)→五十音図の表と裏(陽陰)合わせた基本100神(同じ神の名二つ)
萬(ヨロズ、千)→百神からの派生神と解釈。
食音は食物を噛み唾液を以て呑み込む過程で出る音全て。
言霊が響く仕組み
天名→真名→神名と現実化された声•音•響は、また自身の耳を通して真名に戻る神の弥栄成る(鳴る)仕組みです。
これが言霊の仕組み、則ち音霊の仕組みである為、食事をする際は食物を浄化(消化)し自身と一神(霊)一体となる音を聞こし食す必要があります。
音を聞かずして完全なる調和は出来ないのです。
なので、食事は静かに行ずるのが直会の正しい作法となるわけです。
そして、肝心なことはイノルことです。
小宇宙と大宇宙は結ばれていますが、霊的な繋がりという意味では、この産霊(むすひ)を意識して食事しなければいけません。
祈るとは意を乗せること、信じるきることです。
気や霊は信じる人にしか感じられないし伝わらないものです。
祈れば(意乗れば)小宇宙でのことは、たとえそれが小さなことでも結ばれている大宇宙では大きな働きへと変わります。
(小宇宙は大宇宙の縮図であり、リンクしているのですから当然ですね。)
「これからする食事は大祓の儀式であり、私がよく噛んで呑み込み消化することによって、自分自身も全宇宙もこの世全てが浄められる」
と意識して食事を行うと良いでしょう。
食事は浄化
一二三神示では、人は食べるから死ぬと書かれています。
霊魂の死ではなく、肉体(土と水)の死です。土と水の浄化能力には限界があります。
つまり、人にはそれぞれ食録(一生のうちに食べれる量)というものがあり、それを過ぎると食べることが出来なくなり肉体の消化機能は終えます。
老人は食が細いですね。病人も病によっては食事の取れない体になってしまいますね。
これが食録というものです。
人は腹八分で食を節制していくからこそ、神様の浄化という御働きの手伝いというお役を最後まで全うすることが出来るのです。
最後に
現代社会は禁じられた肉類ばかりか、五穀•海•山•野の食物に化学物質(金)を混ぜて汚しています。
遺伝子組み換えも空気汚染も電磁波も同じく。
しかし、これらは大宇宙における神々様が浄化されています。
それと同じ様に(その萬分の一でも)、人は空気や水や食物や言葉を「聞こし食す」ことで浄化のお手伝いをしているのです。
汚したものは結局自分自身に返ってくる仕組みなわけです。
ただし、朝晩、正しい食物を正しい食べ方で戴いているぶんには病は無く、身が滅ぶ寸前まで元気で消化し続けられるような身体を本来与えられています。
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