大祓詞の暗号〜裏の義〜

大祓詞
目次

大祓詞の二つの義

表ノ義は私達が一般的に認知している義です。

つまり、天照大神が皇親神漏岐・神漏美の命を以て大宇宙を浄化するという内容です。

裏ノ義は、自分自身が行として行う実際の義です。

これは言霊と小宇宙の概念が頭に入っていないと中々理解することができません。

義(ギ)とは儀式のギであり邇邇芸のギです。

気(キ)を降ろして具現化・現実化させる言を云います。

裏切りとは…他人は外の自分であり、それは横の繋がりです。

つまり他人は自分(字分け:地分け:血分け)であり、裏の自分です。

この繋がりを切ることを裏切りと云います。

コラム

太陽を物質的に捉えているだけでは、学者としては一流ですが、ヒトとしては二流です。

二流とは、ニノ流れを意味します。

大祓詞の内容のポイント

先ず前提として、大祓詞を唱えているのは天照大神であり、又、天照大神の精神立場で唱えられたものであり、天照大神とは自分自身でもあるコトを頭に入れておく必要があります。

古事記に登場する百神のうち後半の五十神は人として在るべき理想的精神宇宙の神様です。

前半五十神を陽とするならば、後半五十神はそれを具現化するための働きをなす陰であると言えます。

伊邪那岐大神が禊をした清い状態で産み給うた百神最後の三貴子は、人の精神宇宙における最も重要な三つの柱となります。

精神宇宙

宇宙のウは生命的物質具現化欲求の言霊です。

よって、ここでのウの解釈は天意によって具現化された「人」を指します。

宙(チュウ)とは中・内、般若心経で説かれる空(クウ)を意味し、ウ(モノとしての人)の内面世界を指します。

吾(ア)が皇御孫命

漢字表記では「我」になっている場合もありますが、音としては「ア」なので、漢字表記するならば吾が正しいです。

ア(吾)はワ(我)の母音です。

吾→田神産霊神の御働きの顕れ

我→ 神産霊神の御働きの顕れ

普段、私たちが自分のことを一個人の自分と認識しているのが我です。

天照大御神が授けた八咫鏡の「鏡」から我を抜くと神と成るが如くです。

アは天とも表します。

アは陽であり、日(霊)です。

それに対してワは地であり陰であり月と表されます。

天から地への想いを愛(天意)と呼びます。

これは天を自身と見、地を外の自分と見るときと同様です。

皇御孫命(スメミマノミコト)とは天照大御神の孫なので邇邇芸命を指しますが、これは言霊であり、キのギ(気の義)である天意の実相を指します。

つまり、我々全人類一人一人を指しているということです。

↓「邇邇芸命の天孫降臨」参照

天照大御神を天とするなら、人は地と言えます。

天照大御神を日(霊)とするなら、人の肉体は月(実)と言えます。

天照大御神を吾とするなら、個人は我と言えます。

天地日月一つです。

天と地、日と月ではなく不二であり繋がっている(産霊)のです。

皇親神漏岐・神漏美命以て

「えツ…どちら様ですか?」となりませんか?

本来、天照大御神から見た皇親とは伊邪那岐大神のことを指すはずです。

しかし、大祓詞では神漏岐・神漏美命と記されています。

神名とは元々音霊であるので、神名が違えば神様もその御働きも違ってきます。

このコトが今回の記事タイトルにもある大祓詞の裏義の証と言えます。

カムロギ・カムロミの二神

上歯と下歯を合わせることを噛む(カム)と云います。

この二神は、小宇宙では上歯(火)と下歯(水)を合わせるという噛むという象(カタチ)・働きで顕れています。

カム言によって唾液(大海原)が口内に埋まれ、祓戸四神の働きにより食物が胃まで運ばれ消化(浄化)されるという仕組みです。

つまり、カムロギ・カムロミの二神は食事における皇親にあたるわけです。

カムロギとは、噛む行(動作)の元となるキ(気)のギ(義)です。

カムロミとは、その気によって具現化・実相化した行そのものになります。

祓戸四神

祓戸四神の御働きの記述表現

速川の瀬に坐す 瀬織津姫と云う神 大海原に持ち出でなむ

此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に坐す 速開都姫と云う神 持ち加加呑みてむ

此く加加呑みてば 氣吹戸に坐す 氣吹戸主と云う神 根国 底国に氣吹き放ちてむ

此く氣吹き放ちてば 根国 底国に坐す 速佐須良姫と云う神 持ち佐須良ひ失ひてむ

此く佐須良ひ失ひてば 罪という罪は在らじと 祓え給ひ清め給ふこと

天津神 国津神 八百萬神達共に 聞こし食せと白す。

瀬織津姫は舌の動き、速開都姫は喉元の開き、氣戸主は空気圧力、速佐須良姫は消化器官、といった感じでしょうか。

吾が皇御孫命は豊葦原水穂国を

孫とは上述したように邇邇芸御言の働きを表します。

ニニギとは、天名の子(真名)の子、つまり天名の孫である神名です。

神名(カナ:仮名)はヒが言葉(具象化)や文字(具現化)として実相されたモノです。

天意(あい)により地創(ぢっそう)される働きを示す御言(ミコト)です。

よって、小宇宙における此処での孫とは、氣の実相として顕れている身体を指します。

豊葦原水穂国とは、その身体の一部である口内を指します。

食物との産霊(ムスヒ)が完了する(消化し自身と一体となる)と、+が加わり田んぼになります。(口→田)

+は縦(神・霊⇄人)と横(人・モノ⇄人)のムスヒを表します。

因みに、天照大御神は伊邪那岐大神から「御頸珠の玉の緒」を受け賜ったことから、五十の田んぼを保持しています。

なので、天名(天照大御神)→真名→神名という図式が成り立ちます。

御頸珠の玉

御頸珠の玉継承神話

御頸珠の玉とは三種の神器の一つである弥栄勾玉であり、麻邇(マニ)=真名であります。

即ち、神様が聞こし召し知ろし食す食物(言霊)を整理して並べて置くアイウエオ五十音図のコトです。

御頸珠の玉の別名を「御蔵棚ノ神」と云います。

漢字が違う!と思われるかもしれませんが、漢字は元々あった日本語の一音一音に対し、その時々の概念に合う文字を当て嵌めたに過ぎません。

漢字一字で一概念。

漢字は特定の概念に絞って表現するときに力を発揮しますが、一音で八百萬の働きを表現する本来の日本語と完全に一致させることはできないのです。

一二三神示 水の巻 第十五帖

フジ、ヒ吐かぬようおろがみてくれよ。

大難小難にまつり替える様おろがみてくれよ。

食物戴くときは、よくよく噛めと申してあろうが。

上の歯は火ざぞ。 下の歯は水ざぞ。

火と水と合わすのざぞ。

カムロギ カムロミ ぞ。

噛むと力生まれるぞ。

チと成るぞ、肉と成るぞ。

フジとは富士でもあり無事でもあり二二でもあり、不二(二つに不ず。つまり一つであるコト)

ここでは魂と身、心と体、霊と肉体、を意味します。

一二三神示 五十黙示録 五葉の巻 第十三帖

悪を食ふて暮らさなならん時近づいたぞ。

悪に食われんように、悪を噛んで、よく消化し、浄化して下(おろ)されよ。

悪は善の仮面かぶっていること多いぞ。

だが悪も大神の中に生まれたモノであること知らねばならん。

浄化(消化)とは悪を殺すことではなく、抱き参らせ一つになるコトです。

誉めて讃えて神と崇めて罪を悟らせ、自ずから改心させることです。

食事で例えるならば、「美味しい」「戴きます」「ご馳走様でした」という言がそれにあたり、その上でよく噛んで呑み込み消化し、一体と鳴り成りて、それを聞こ召(食)し、知ろ召すことによって完全調和

まとめ

小宇宙における天照大御神とはアイウエオ五十音図を意自在に操る自分自身(人)です。

そして、大祓詞の裏義において最も重要なことは、大宇宙との繋がりを意識すること、つまり祈ることです。

祈るとは意を載せるコトです。

イノリ無ければ大宇宙と小宇宙の繋がりは起きません。

また、身魂の曇りが酷いと同様です。

本来、人には誰にでも氣を感じ取れる超五感器なるものが備わっているのですが、気を感じ取れない人には取れません。

これは信じる力の違いです。

気を信じる人には、その結びが感じられますが、信じない人には感じ取れないものです。

トーラスの林檎

大宇宙の神様も、我々と同様に「聞こし食し知ろし食し」ています。

(ミミで聞き食べ、メで見て食べる)

ミミとは耳であり御身。

「食す」とは「招す」の言。

即ち、「メス」とは霊を招き入れる言霊です。

「ス」は始祖音であり呼吸の元です。

諸行無常(いろはにほへとちりぬるを)とあるように、形あるモノは必ず滅びるものです。

それらを含めた穢れを浄化し循環することで新たな生命を生み出す行が食事です。

上のトーラス画像は、上下(天地)左右(日月)の永遠循環を表しています。

この弥栄なる循環を『神の息吹』と云います。

現実界の生き物でいうところの「呼吸」にあたります。

このように大宇宙と小宇宙は結ばれているわけでして、この食事における産霊(ムスヒ)を『直会』と云います。

食事をするときは、大祓詞・大宇宙産霊小宇宙・直会を意識して、正しい食べ物を正しい食べ方で戴き、神様に感謝しましょう。

この記事へのコメント

コメントする

目次