神棚と礼拝方法の一例

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一二三神示 祭の巻 第十八帖

どの身魂も我の強い御霊ばかり、よく集まったものぢゃと思ふであろうが、その我の強い者がお互いに我を折りて、解け合って物事成就するのぢゃぞ。

旧九月八日迄にすっくりと祀り変えてくれよ。

真中に 御三体の大神様、御三体の大神様、天ノ日月ノ大神々様、地ノ日月ノ大神々様、雨ノ神様、風ノ神様、岩ノ神様、荒ノ神様、地震ノ神様 弥栄祀り結構ぞ。

その左に 仏教、キリスト教、イスラム教の神様、世ノ元からノ生き神様、百ノ神様、産土ノ神様 善きに祀り結構ぞ。

その右に 地ノ日月ノ神々様、霊(タマ)の諸々の神様 厚く祀りくれよ。

私の神棚と朝晩行なっている礼拝方法を紹介します。

と言っても、この礼拝は一二三神示を基にしています。

なので一二三神示をご存知ない方や、これから神棚を設置しようと考えている方の参考に少しでもなればといいな思います。

私は三社宮の形式をとっており、真中を本宮とし、真中⇨左宮⇨右宮と言宣れています。

先ずは拝む流れを記し、その後に各ポイント解説を記述します。

礼拝作法

気を整えて暫く目を瞑り、心開いて一拝、二拝、八拍手。

また気を整えて『数歌』を言高く宣ります。

「れい ひィとォ ふゥたァ みィ よォ いイつゥ

むゥ なァなァ やァ こォこォのォ たァりィ」

また気を整えて『一二三祝詞』を言高く宣ります。

「ひふみ よいむなや こともちろらね

 しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか

 うおえ にさりへて のますあせゑほ

 れ〜け〜」×三回

神気整えて

あめ日月ひつくの大神様 八尺やさかましませ 弥栄いやさかましませ」

くにの日月の神様 八尺ましませ 弥栄ましませ」

と心の中で祈り、終わって八拍手。

継ぎに左宮の礼拝(五柱の神様は本宮)

「雨の神様、風の神様、岩の神様、在れの神様、地震の神様、

百の神様、世の元からの生き神様、産土の神様の大前に申し上げます。

日々にちにちの御守護、お導きに感謝致します。

今後共、大難を小難にまつり替え戴きますよう願い上げます。

この度の岩戸開きの御神業に、尚一層の御活動願い上げます。

世界の民等が日々犯しました罪・穢れ・過ちは、

何卒、神直日・大直日に見直し聞き直し下さいまして、

この上ながらの御守護願い上げます。」

終わって、気を八回戴きます。

万歳の流れで鼻から息を吸い込み、口から息を吐く時に、一回目は「ひイ」、二回目は「ふウ」という様に八回目の「やア」まで。

継ぎに右宮の礼拝

これ祖霊宮みたまやに神しずまり

遠津御祖神とおつみおやのかみ 代々よよ祖霊神達おやかみたち御前みまえ

また親族家族うからやから祖霊神みたま御前おんまえつつしみいやままお

此の内には諸々の禍事まがごと・罪穢れ 在らしめ

世の護の護りに 護り幸い給ひ

まこと 神國かみくに御民みたみとしてのつとめまっとうせしめ給へ

夜の護り 日の護りに まもり捧ぐるものの絶間たまま無く

子孫うみのこ弥栄継いやさか つぎにさかえしめ給へとかしこみ畏み白す

惟神霊幸倍坐世かむながら たまち はへませ 惟神霊幸倍坐世」

(ここでは御先祖様への拝詞だけを記します。その他の御霊神様は各々拝み下さい。)

礼拝の重要事項

“気を整えて暫く目を瞑り、心開いて…”

あくまでも開くのは心であり、目を開くタイミングは任せられています。

これは本宮だけでなく全てを通して言えることですが、唯物論に囚われない為にも慣れるまでは『目は閉じたまま』拝んだ方が良いと私は思います。

祝詞を唱えるときや祈るときは特にそう思います。

理由は一般的に神棚(お宮)はあくまで物質的な目当てであって、神様の本質は霊体であり大宇宙であり小宇宙であるからです。

よく「神棚を祀る」と言いますが、これは誤りです。

天照大御神が授けた八咫鏡

小宇宙とは自分自身(霊・魂・祖先・神)であり、大宇宙と繋がる存在です。

岩戸隠れの際、天津麻羅と伊欺許理度姫が天照大御神を象って作ったとされ、天照大神自身を写して、天手力男神による岩戸開きのきっかけとなったのが三種の神器の一つである「八咫鏡」です。

天孫降臨の際、天照大御神から邇邇芸命に「此の鏡を私と思って祀るように」と神勅が下されました。

これらのコトが示すのは、『無我の己が神である』ということです。

かがみという言からを無くすとかみになる」とよく言いますよね。

鏡とは内面に働く力ですので、映すのは自分自身です。

神社や神棚には鏡が供えられているものですが、その慣わしの理由はこういうことにあります。

極端な話、家に神棚を用意する必要は無いないとも言えます。

心底祀れるならば、100均で買ってきた鏡一枚でもよいわけです。

一二三神示 夏の巻 第二十一帖

始めは形あるものを対象として拝むもよいが、いきつまるのは目に見える世界のみに囚われているからぞ。

縦の繋がりを見ないからであるぞ。

死んでも自分は生きているのであるぞ。

大我に帰したり、理法に溶け入ったりして自分というもの無くなるのでないぞ。

霊界と霊と、現界と現身うつしみとのことはくどう説いてあろうが。

神示読め読め。

大往生の理、弥栄に体得できるのであるぞ。

霊と体と同じであるともうしても、人間の世界では別々であるぞ。

内と外、上と下であるぞ。

取り違いせんようにしてくだされよ。

神示にあるように、縦のつながり(天と地、神霊と人、大宇宙の神と小宇宙の神)を意識することが大切です。

しかしながら、このことを心の底から理解するのは容易ではありません。

だからこそ礼拝の時に物理的に目を瞑る意義があるわけです。

(理解したとしてもやはり物質的目当てがあった方が気持ちが入りやすいモノでもあるかもしれません。)

神棚などの用意がない人は、お日様とお月様を拝むと善いでしょう。

曇って見えないときは、小宇宙(自分自身)の中にあるお日様とお月様を拝めば善いのです。

これは人それぞれなので、まずは自身が気持ちよく拝める方法を取れば善いと思います。

ゆくゆくは、ということですね。

左宮と右宮の配置

神社庁の三社宮配置図
神社庁による三社宮配置図

一般的に、三社宮の場合だと自分から見て右側を二の位、左側を三の位と位置づけています。

これは自身から見た左手と神様から見た左手は違うという観点からそうなったと思われます。

しかし、上述した天照大御神の八咫鏡を思い出すと、鏡に映った時の自身の左手はどちら側にあるでしょうか?

神界と人界は合わせ鏡と云うように、位置自体は変わらないのです。

では何故、自分から見て右側を二の位と位置付けているのでしょうか?

これは神様を形あるもの(陰)として捉えているからでしょう。(愚象崇拝)

つまり、あたかも人と対面しているような感覚で捉えているのではないかということです。

同様に、お宮の前に祀る鏡(カガミ)の言も物質的なモノとしてだけ捉えているわけです。

そこに在る目に見えない非物質である「カガミ」を捉えきれていないのです。

本宮解説

本宮には根本となる大神々様をお祀りします。

具体的には

一、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神

二、伊邪那岐神・伊邪那美神・撞賢木向津姫神

三、天に属する日月(陽陰)の神々

四、地に属する日月(陽陰)の神々

五、雨の神・風の神・岩の神・荒れの神・地震の神

天日月大神…(三)の纏った概念神(役所的存在)

地(クニ)日月神…(四)の同上

二つの御三体の大神様…(一)と(二)

天日月大神々様…(三)例:天津神の陽陰二柱

地日月大神々様…(四)例:国津神の陽陰二柱

五柱の神様…(五)以下神名↓

雨の神…アメノミクマリ・クニノミクマリ

風の神…シナトヒコノ・シナトヒメ

岩の神…イワナカヒメ・イワトワケ

荒れの神…オオイカツチノオ・ワケイカツチノオ

地震の神…タケミカツチ・フツヌシ

ここでは分かりやすく表記するために漢字を使用していますが、祈るときは以下のようなことを意識するとより善い効果的な意宣りができます。

・カナ(神名)は一言で八百萬の意味、働きがある。

・漢字はある一概念を表すのには適しているが、カナ文字のように本来の深く広い解釈が難しくなる。

例えば、雨と漢字で表すと意識できるのは一つですが、「アメ」とカナ文字で表すと、雨・天・吾眼、など様々です。

地震もカナ文字を意識すると、自身・自信・地心・指針など様々あります。

一二三神示 水の巻 第三帖

神の子は、神としての自分養ふことも、努めの一つであるぞ。

取り違ひすると大層なことになるから、気つけておくぞ。

書かしてある御神名は御神体として祀りてもよく、お肌守りとしてもよいぞ。

数え歌

『ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり』

数霊で表すと『一二三四五六七八九十』です。

これは数え歌と云い、神道奥義の一つとされます。

次に挙げる『ひふみ祝詞』(一二三祝詞)もそうですが、この数え歌を一概に説明することは困難です。

なぜならば、アイウエオ五十音図の一音一音が神霊であり、その一音一音にまた八百萬の神が繋がって出来上がっているのが日本語で、数え歌は在り方を凝縮した祝詞だからです。

*興味のある方は数え歌で検索してみると、様々な概念が存在することに驚くはずです。

一例を挙げると、一(ヒ)〜十(ト)で人の在り方を表しています。

始まりのヒ(霊)であり、終わりの十は神の子である聖キリストでお馴染みの十字架でもあります。

外国人はイエスを磔にしてしまったわけですが、十の本来の意味は縦(神霊)と横(人・モノ)の結びが交わった状態を表します。

ひふみ祝詞も同様ですが、数え歌を宣るときは母音を意識して高く澄んだ声で発声するとより効果的です。

母音とはアイウエオ五音のことです。

例えば、む(六)には母音ウが付き、不二(二つで一つ)となります。

これは無→有という真理を表しています。

上記の数え歌では「むゆ」となっていますが、無(む)と有(ゆ)で同義になります。

祝詞はあくまでも自身の声で、自身に綺麗に響く音で。

一二三祝詞(ひふみ祝詞)

「ひふみ よいむなや こともちろらね …」

四十七からなる音の連なりを一二三祝詞と云います。

一二三神示 キの巻 第十一帖

一二三とは限りなき弥栄であるぞ。

ヒは始めなき始めであるぞ。

ケは終わりなき終わりであるぞ。

神の能(はたらき)が一二三(ひふみ)であるぞ。

始めなく終わりなく弥栄の中今(なかいま)ぞ。

一二三は神の息吹であるぞ。

一二三唱えよ。

神人共に一二三唱えて岩戸開けるのざぞ。

一二三に溶けよ、一二三と息せよ、

一二三を着よ、一二三食せよ。

始めに一二三あり。

一二三は神ぞ。一二三は理(道)ぞ。

一二三は祓い清めぞ。

祓い清めとは弥栄ぞ。

神の息ぞ、天子様の息ぞ、臣民の息ぞ。

ケモノ、草木の息ぞ。

ヒであるぞ、フであるぞ、ミであるぞ。

ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ。

渦であるぞ。

皆の者に一二三唱えさせよ。

五柱御働きぞ。

八柱十柱御働きぞ。

五十連(いつら)ぞ。

意露波(いろは)ぞ。

判りたか。

唱え方

手拍子(柏手)を一定のリズムで絶え間なく打ち続けながら、言は三・五・七に区切り、最後のレとケは伸ばします。

→ひ(柏手)ふ(柏手)み(柏手)、よ(柏手)い(柏手)む(柏手)な(柏手)や(柏手)、…

これを三回繰り返して1セットです。

(手拍子には余り拘らず、自身がやり易い様に宣れば良いのかなと思います。)

○天地人、三界(神霊界・幽界・現実界)

○天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神

○魂・肉体・その他全て

という感じでこの三回を意識すると善いでしょう。

祈ると宣るの違い

端的に言えば,言葉を発するか発しないかの違いになります。

「宣る」とは、言葉として世に放つ、響かせることで自分の耳に聞かせることです。

「祈る」とは心の中で意を乗せること、頭に浮かぶ真名(五十音図)から抜き出した音に意識を繋ぎ一つと成ることです。

なので祈る場合、言葉は発しません。

また、同じイノルでも「意宣る」とした場合は上述した双方の意味を持ちます。

こういうところで狭い概念を表す漢字が活きます。

大和言葉のままの清音である象神名(カタカナ)だと広すぎて一概念を説明するのが難しいところではあります。

左宮解説

左宮には、お釈迦様、イエス・キリスト様、マホメット様、百の神様、世の元からの生き神様、産土の神様をお祀りします。

仏教の神様はお釈迦様、キリスト教の神様はイエス様、イスラム教の神様はマホメット様になります。

産土の神様は自身が母親の胎内に居た時の土地の最寄りの神社に祀られている神様です。

氏神様は、名字(父方)で繋がる血縁的な祖先神、または代々の守護神。

産土神様は、読んで字の如く生まれた土地の神様です。

人という象は、土と水と火(霊・陽)で出来上がります。

つまり、母親が妊っているときの食や環境の恵みによって私たちは誕生しているわけです。

一二三神示 カゼの巻 第一帖

同じ名の神二つあるのざぞ。

善と悪ざぞ。

この見分けなかなかざぞ。

神示読めば見分けられるように、よく細かに説いてあるのざぞ。

善と悪と間違ひていると、くどう気付けてあろうがな、岩戸開く鍵ざぞ。

名同じでも裏表ざぞ。

裏表と思ふなよ、頭と尻違うのざぞ。

千引(チビキ)の岩戸開けるぞ。

一二三神示 アオハの巻 第十三帖

同じ名の神二つあると申してあろう、同じ悪にもまた二つあるのじゃ、この言 神界の火水ぞ。

この言判ると仕組み段々解けて来るのざぞ。

鍵ざぞ。

右宮解説

右宮にはご先祖様や、その他諸々の御霊の神様をお祀りします。

諸々の御霊の神様の例を挙げると、太宰府天満宮の菅原道真公、八幡神社の応神天皇(誉田別尊)や神功皇后、日光東照宮の徳川家康公、靖国神社の英霊、その他友人知人などになります。

右宮で特に重要なのがご先祖さまではないでしょうか。

神道の基本でもある先祖供養は、自身から遠津御祖神という自分の根を含めた代々の祖霊神と一つとなることが、天津神・国津神ともに一体となることに繋がるという伝えが基盤にあります。

よって、ここではご先祖様への拝詞はしっかりと捧げ、その上で他の御霊神様には各々拝むと善いと思います。

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